3/4中村倫也、黒木 華のケンジトシを観に行って来たの巻
↑ サンケイホールプリーゼビル前の黒猫
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中村倫也、黒木 華出演の舞台「ケンジトシ」を観にサンケイホールプリーゼへ行ってきました。午後14時30分からの第1部。
サンケイホールプリーゼは行ったことなかったけど、以前行ったビルボードライブ大阪の近くかな?って思っていったら、少し迷って、結局JRの線路沿いの方からぐるっと回って到着という感じだった。到着は14時10分くらい。ちょうどよさそう。
北側の入り口からビルへ。
本来の入り口とは違うみたいで、少し左奥の方にエレベーターがあった。
このエレベーターは空いていました。
エレベーター降りると、長蛇の列。入場まで約10分くらい並ぶ。
今回は初めて「1階バルコニー席」だったので、少し迷う。全然表示がない。
係りの人に尋ねたら、階段上がったところの専用扉まで案内してくれた。ありがとうございます。
二枚の扉を開けると、バルコニー席。すでに他の方々は着席済。斜めを向いた一列の席が6席。4番なので、真ん中の方。
舞台は、正方形の板が一枚とその横にバイオリニスト1名。
バルコニー右席からは、右の端が少し見切れるが、少し俯瞰で観れてよく見える。
ただ席が中途半端に斜めで、斜めだからと言って舞台には向いていない。舞台から左の端の方を向いているから、舞台を見るには少し首を右に向けなければならない。この角度が微妙につらい。
周りは女性ばかりなので、動くのも嫌な感じなので、出来るだけ動かずに息を殺す。と思ったら、劇が始まってすぐにむせてしまって、咳が止まらない。必死で咳をを止めて、ようやく収まった。どうやら舞台を見るのに少し右下を向くと、喉が変な感じになりむせやすくなるみたいだ。その後は、首の角度に気を付けて、なんとかやりすごす。
さて、舞台の内容だが、帰ってから検索したら、こんなの出てきたけど
これの影響を受けているのかな?
宮沢賢治と石原莞爾。それぞれが描いた理想郷が「イーハトー
ブ」と「満洲国」であった。一方は文学の世界で描いたユートピア。
他方は満洲事変の立役者が国家体制として描いた王道楽土。この奇異な取り合わ
せの真意とは何か。
同時代を生きた二人が日蓮=法華経の信者であることは知られているが、戦後、
両者への評価は真っ二つに分かれる。賢治は「雨ニモ負ケズ」で印象づけられた
純粋無垢な求道者、莞爾は日本を軍事国家に導いたファシスト、というように。
しかし両者には、同郷、同世代であること以外に、先述のように、法華経の熱心
な信者であったという重要な共通点がある。戦前、時期を同じくして、二人
は法華経教団「国柱会」の会員となり、その主宰者・田中智学に傾倒していく。
本書は、これまで誰も正面から論じることがなかった二人の思想・信仰について
柔軟な筆遣いで明らかにする。「あの戦争」が何であったかを斬新な切り口で
検証する画期的論考。
ここに書いているこのままの内容で、宮沢賢治が思い描いた「イーハートーブ」、石原莞爾、仏教、などが絡み合って、その話を宮沢賢治の妹トシの人生と重ねて描かれている。
ちなみに
宮沢 トシ(みやざわ トシ、正字:宮澤トシ、1898年(明治31年)11月5日 - 1922年(大正11年)11月27日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の女性。詩人・童話作家の宮沢賢治の妹で、彼の理解者の一人であった。日本女子大学校(当時は旧制専門学校の扱い)を卒業後、岩手県立花巻高等女学校(現・岩手県立花巻南高等学校)で教員を務めていたが、結核により24歳で死去した。彼女の臨終の模様は『永訣の朝』等の賢治の詩に描写され[1]、またその死去は賢治の創作活動に大きな影響を与えたとされる[2]。
なお、名前の「トシ」は戸籍名であるが、賢治の創作や書簡においては「とし子」「敏」といった表記も用いられている[2]。
だったようである。
全体的に落ち着いたトーンで進み、カニ、鹿?などの動物役の人たちが、宮沢賢治の幻想的な世界観を表現していた。
中村倫也、黒木 華の演技もうまくて、良い舞台だったんじゃないかな。